黙々と草を取る

今年の夏は十日ほど帰省。うち自分の実家は一週間。

実家では親戚が来たり、近所の友人と会ったり、基本家でまったりしていたのだけど、とても心が安定というか満たされたなあと思っていて、その理由が、暇さえあれば庭の草取りをしていたから。

 

祖父母が健在だったころはしょっちゅう二人で、庭にしゃがんで草を取っていた。それが当たり前の時は何も気づいていなかったけど、実はすごいことだったのだと分かったのは、二人ができなくなって庭が荒れ始めてから。


父母は時間がないのでじっくり草取りする暇がない。大きなところは草刈り機、細かいところは除草剤をまくようになった。(そしたら昔は見なかったワカメみたいのが発生するようになった!←イシクラゲと言うらしい)花も雑草に埋もれ、花壇の境目は分からなくなり生命力の強いドクダミ勢力を拡大していた。


昔に比べ荒れた庭を見て寂しくは思っても、自分が動こうと思ったことはなかったけど、今年はたっぷり時間もあるし、なんだか草取りしたくてたまらない。

 

結果、自分でも不思議だったのだけど・・・草取り一つで気持ちが変化した。
もくもくと手を動かし汗を流すこと、触っている対象が土とか草とか自然のものであること(ミミズや虫も出てくるけど)、そしてやったらやっただけ成果が目に見えること、等々すごく気持ちがいい。帰省中はスマホもあんま見てなかったせいか、余計な情報も入って来ず頭がスッキリしていた。

 

このことから、普段の生活では私は手や体を動かすことよりも頭に情報を入れることに偏っているのだなと気づき、自然に触れる機会がもっとあったほうがよいのだな、と感じた。草取り生活中の私は、その肉体労働のなかに喜びを見出していたし、自然とつながっていたせいか他人を気にしたり他人と自分を比較したりする気持ちが起きず、ただただ自分とだけ向き合えていた気がする。

こんな日常の足元に、自分とつながる方法があったなんて。足元を見てそこを整えることをせず、どっかに飛んでいそうな青い鳥を探して遠くや上ばっか見ていたんだなあと。

 

ふと思い出したのが、旦那のお母さんだったり前のヨガの先生。土いじりや野菜を育ててる人は日常をおろそかにせず地に足がついている(ように私には見えた)のは、文字通り自然とつながっているからなのか、と勝手に納得。

 

それと大げさかもしれないけど、どこか実家のことを他人事として見ていたけど、庭をきれいにしただけで、初めて自分事に感じられ(嫁行っちゃってるけど)、過去のここの家に暮らしてきた人たちが大事にしてきた土地に対する気持ちみたいなのを、ほんのちょっと共有できた気がした。ちょっと前の時代まで、土地=生活の糧=命綱 だったのだなと。

 

ずっと、農業とかも大変な面や、否定的側面ばかりが自分にはクローズアップされてたけど、もしかしてもしかして・・(職業としてというより自然とともに生活があるということは)すごい喜びを感じることなのかもしれない・・・という疑い?が出てきた。今は想像でしかないけれど。